22. 日豊本線宗太郎駅

〈位置〉 重岡―市棚 間

〈開業〉 大正12年12月15日(信号場)
    →昭和7年12月6日(信号場のまま旅客扱い開始)
    →昭和22年3月1日(一般駅)
    →昭和47年3月30日(無人駅)

〈乗車客数〉 1

〈概要〉

大分と宮崎の山深い県境にある小駅で、最近は"秘境駅"として脚光を浴びるようになった。"宗太郎越え"の難所として知られるこの区間は日豊本線で も最後まで残った未通区間で、大正末期になって漸く豊州本線(北側)と宮崎本線(南側)の重岡―市棚間が開通した際、長い駅間に列車の交換場を置く必要が あり、急な下り勾配とトンネルが延々と続く山間のわずかな平地に"宗太郎信号場"が設けられたのだった。旅客扱いを始めたのは昭和7年頃かららしい(信号 場のまま)が、正式な駅に昇格したのは戦後になってからで、長いトンネル区間の"オアシス"としての役割を担う一方、すぐ両側をトンネルに挟まれた特異な 地形から、絶好の撮影場所としてSLファンにも人気があった。また、"宗太郎"という印象的な駅名は、江戸時代に岡藩からこの地区の管理を命じられた"洲 本宗太郎"という人物の名前に由来するという。したがって、集落自体は意外にも元禄期(17世紀末頃)からあったことになるが、現在駅周囲にはわずか十軒 程の民家があるだけで、空き家?も目立ち、日中でも人影はなくひっそりとしている。この駅の1日当たりの乗車人員は平成21年度調べでわずかに0.24人 という有様(年間100人弱で"ゼロ"の日も多々あるということ)で、恐らく九州内では現在最も乗降量の少ない駅の1つと考えられる。当然、普通ならば廃 駅の対象となってもおかしくはないはずだが、重岡―市棚間が14.3kmも離れているため、やはりこの区間に列車の交換施設を残しておく必要があるのだと 思う。かつては上りホーム端の狭いスペースに非常に味わい深い木造駅舎があったが、老朽化のため昭和末年頃?に撤去されてしまい、現在では不相応に立派な 跨線橋を渡った下りホーム上に小さな待合所があるだけで、往年の面影は全くない。また、一般駅昇格後も乗降量は決して多くはなかったはずだが、自動信号装 置が導入される昭和47年まで駅員が在駐したため、昔は運転関係業務(閉塞・信号)の片手間に乗車券類の発売や旅客手荷小荷(チッキ)などの取扱いも行わ れたことがわかっている。


〈訪問記〉

現在、宗太郎駅には普通列車3往復が停車するのみなので、鉄道を使って訪問するのはなかなか大変だが、幸いすぐ傍を国道10号線が走っているため、 牛山隆信氏のいう"車到達難易度"は比較的低く、そのため"秘境駅"ランクがやや下がってしまうのは仕方がない。(ちなみに、牛山氏は当駅がお気に入りら しく、息子さんに"宗太郎"という名前を付けたという。) 筆者も何回か車で当駅を訪問しているが、宗太郎峠に掛かる深い山中にあって駅の周囲以外には人 家がほとんどなく、また付近に登山口・景勝地なども全くないため、極わずかな住民がたまに利用する他は、筆者のような奇特な鉄道ファンが訪れるだけの本当 に寂しい所だ。
 駅は、"鐙川(あぶみがわ)"という1級河川・北川の支流沿いにある小さな集落のやや小高い山裾にあり、国道からもかすかに見えるので行き着けないとい うことはないものの、集落内には駅の方向を示す標識の類やいわゆる"駅前通り"のようなものは一切なく、車が1台通るのがやっとの細いS字状坂道を 100mほど上りきった妙な場所にいきなり駅の入口が現れる。特に昔は、駅を中心として集落が形成されることが多かったため、駅員配置の一般駅だったこと が信じられないような立地条件である。


残念ながら、現在駅舎は存在しない。昭和62年6月頃に当駅を訪れた方が、駅舎を撮影した写真を公開されているため、少なくとも民営化の時点まで あったのは間違いないが、筆者が平成5年頃に訪問した際には既になかったので、たぶん昭和末年頃に急遽解体されたのではなかろうか。
...なぜ、写真に収めておかなかったのかと思う。撮影の機会はいくらでもあったはずなのだが、当時は北海道の小駅ばかりに目が向いていたため、JR九州 の"古い木造駅舎取り壊し"の方針にも全く無頓着だったためだ。しかも、色々な書籍やネットを漁っても駅舎を写した画像はほとんど見当たらず、幸い愛読書 の「九州720駅」(小学館・昭和58年発行)にはサムネイル写真が載っていたが、モノクロのうえあまりに小さくて、細かい構造などがよくわからな い...。
 ところが、極最近、JR九州が企画参加者に無料配布したという"「国鉄色485系で行く日豊本線開業100周年の撮り旅」ご乗車記念重岡驛&宗太郎驛入 場券"の台紙(左図)に当駅の駅舎写真が載せられているのを見つけた。カラーというだけで感激ものだったが、よく観察すると改札口のラッチと出札口及び チッキ窓口の張り出し部分がバッチリ写っているではないか。これで、想像通り正面入口の右側が大きな駅事務室、左側が小さな待合室という構造であることが はっきりした。さらにその後、念のため再度ネット検索してみたところ、上記のHP画像も発見、駅舎内の様子を窺い知ることもできた。やはりモノクロで解像 度が低いのは残念だが、ホーム側の壁に青地白文字の古いタイプの駅名標が懸かっていたことも判明。また、無人化後は駅事務室が地区の公民館として使用され ていた由である。(この方のサイトでは宗太郎駅の歴史についても非常に詳しく研究されているので、是非検索をお奨めする。~IT特急「日向」/ 宗太郎1987 / 宗太郎越え~)

 もし、当駅の古い駅舎写真・画像をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非お譲り下さいますようお願い申し上げます。

現在でも駅舎の基礎(コンクリート土台)は残っているため、事務室部分・待合室部分の凡その位置や広さは実感できる。また、丁度写真の改札口辺りに 黄色い金属製のラッチのようなものも残っているが、これは当時のものであるかどうかよくわからない。電話ボックスの傍らにあるコンクリートブロックは古 い"井戸"の施設らしく、ちゃんと蛇口がついていて今でも使用可能。(筆者は気が付かなかったが「日豊線一うまい水」だそうである。)

恐らく当時のまま残っている駅の便所。なぜか駅本屋(上り)部分には待合所が造られなかったため、やむを得ずこの外壁に発車時刻表が貼り付けてある。旅客扱いする列車は日にわずか6本だけだ。

"対向式"の長いホームがわずかに往時を偲ばせる。しかし、駅名標は上下ホームに1枚ずつあるだけ。(平成5年頃までは国鉄時代の古い駅名標が使わ れていた。) 昔は跨線橋がなく、旅客は跨線通路で直に線路を渡っていたと考えられる。また、下りホーム(右側)の跨線橋前にはなぜか「初代駅長の記念 碑」があるが、この"謂れ"については上記のサイトが詳しい。(当時の"西畠駅長"が宗太郎信号場の"客扱い"を請願する地元民のために尽力した功績を讃 えたものという。) 正式な開業は昭和22年3月となっているが、実際には昭和7年12月より旅客扱いを開始している由である。

宗太郎駅を高速で通過する下り特急「にちりん」。日に何回か行き違いのために運転停車するらしいが、当然のことながら"扉は開かない"。しかし、件のツアー(平成24年1月)では"485系"の特別列車が当駅に停車し、希望者には下車撮影も許されたようである。



〈時刻表〉

交通公社の時刻表(左:昭和42年10月号 / 右:昭和44年5月号)。
宗太郎駅に停車(旅客扱い)する列車は、昭和40年代初期の7往復14本を最多として、ダイヤ改正により微妙に増減する程度だったのが、民営化後は宗太郎 ―市棚間がJR九州の大分支社と鹿児島支社の境界となった関係で、採算のとれない佐伯―市棚間の運転本数(普通列車)が激減してしまい、平成16年3月の ダイヤ改正ではわずか2往復4本まで減らされたが、平成24年2月現在は3往復6本と少し戻っている。また、宗太郎駅の旅客扱いで特筆すべきは、昭和40 年代に一時期「急行列車が営業停車した」という事実であろう。まず、昭和42年10月のダイヤ改正で試験的に(?)急行「日向」が旅客扱いを開始、最初は 上り便だけだったが、翌昭和43年10月ダイヤ改正からは急行「日南3号」が上下便で停車するようになった。(これを機に、ひょっとしたら「乗車駅常備の 急行券*1)」(硬券)なども設備されたのだろうか。もし、どこかに残っていれば切符マニアにとって垂涎の的であるのは間違いない。) 残 念ながら、これら定期急行列車の旅客扱いはその後約3年半で終わってしまったが、宗太郎駅が無人化された昭和47年3月改正以後も暫くの間、(GW)季節 列車の上り急行「南九州グリーン号」が深夜(23:07発)に営業停車したことなどもわかっている。これらの取扱いは、多分に「運転停車(列車交換)のつ いで」という感じはするが、現在の宗太郎駅の状況を思うと、まさに隔世の感があるのは否めない。


*1 実際に自分で作ってみたのがこれ(左)。宗太郎駅を利用する旅客の需要で最も多いのは(当時も今も)「佐伯ゆき」もしくは「延 岡ゆき」と思われますが、急行を利用するような中距離以上ならばやはり「大分ゆき」(98.1km)と考えられます。普通は"発駅補充"の券を設備すると ころでしょうが、敢えて乗車駅(宗太郎)印刷の常備券があったとして、かつ「昼間のうちに着きたいので、"日南3号"ではなく佐伯から別の急行に乗って大 分まで」...という想定です。(ちょっと凝り過ぎですか...。)

※ 上記の模擬券を作製した後、ふと気になって時刻表(昭和44年5月号)を読み返していたら色々なことに気付きました。
1) おや?列車に"1・2等"を表す記号が付いている。(上図:右側参照)
券に「2等」の文字を入れるべきだったか?いや、確か昭和44年5月から等級制は廃止されたはずだがと不思議に思い、巻頭ページをめくったら、「お願い  本文の文字や記号は、従来の2等級制で記載してありますので、ご了承下さい」とあり、どうやら交通公社版では翌6月号より記号類が改訂になったらしく、こ れは一応解決。
2) あれれ?上りの「日南3号」には"普通車(自由席)"がないじゃん。(左図参照)
上りの日南3号(206レ)は基本的に"寝台列車"で、普通車が連結されてはいるものの"全車指定席"であったことにうっかりしていました。"駅名小印" まで捺して内心"なかなかの出来栄え"と満足していたのですが...。当時の規則では「100キロまでの急行券では指定席車に乗れない」ことになっていま したので、上記の模擬券は「200キロまで(200円)」で作製しなければならないのでした。しかし、念のために下り便も調べてみたら、下りの日南3号 (209レ)には普通車(自由席)が連結されており、「いや待てよ、やっぱりこういう券があってもいいのでは?」とも一瞬思いましたが、よく考えてみた ら、延岡・宮崎方面に行く旅客が佐伯まで戻って急行に乗車するはずはありません。しかも、宗太郎駅から下りの「100キロまで」の区間というと、急行停車 駅では延岡・南延岡・日向市・南日向(!)・高鍋・佐土原の6駅しかなく、需要が高そうな宮崎駅まではぎりぎり届かないうえ、延岡・南延岡は近過ぎて、わ ざわざ急行料金を払ってまで乗る人がいるかなあと考えると、「100キロまで」の常備券の口座があった可能性はほとんどないと結論できそうです。常識的に は、もし本当にこのような急行券(硬券)の設備があったとしても、宗太郎のような小駅では"発駅補充の準常備式"(モノクラス以降ならば単独の"準常備急 行券"もしくは一葉式の"準常備急行券・指定席券"ないし"準常備急行券・B寝台券"くらいまで)が妥当と考えられます。



〈宗太郎駅のきっぷ〉

普通入場券 30円券(昭和46年発行)真券。「鉄道入場券図鑑」による分類では"30円門司1期"で、昭和44年11月から小児料金(半額)が設 定されているにもかかわらず旧券様式ということは、昭和44年5月の料金改正頃から約2年間で60枚強しか売れなかった可能性が高い。人気があり、かなり 入手困難で高額。


 ちなみに、宗太郎駅の場合は"30円門司3期"(小児断線入り)の券も見つかっている(左:コピー)が、日付は無人化の直前で、発行枚数は極めて 少ないと考えられる。(上記の1期券100枚を売り切ってから、昭和46年の後半もしくは47年初めに請求したものではないかと思われる。) 10円券 (朱帯入りA型券)などよりむしろ希少と考えられるので、もしオークションに出れば2万円以上の高値が付く可能性が高い。

※ その後、偶然にネットオークションで昭和47年1月17日発行の30円券が出品されているのを見つけましたが、券番は「0097」で、ま だ"30円門司1期"でした。したがって、"30円門司3期"(小児断線入り)の券に切り替わったのは、無人化のわずか2ヶ月前頃と考えられそうです。

※ さらにその後、同じネットオークションで"昭和47年2月6日発行"の30円券("30円門司1期")を見つけましたが、「料金30円」を手書 きで「10円」に修正し、料変印と(小)印が捺してあるのはよいとして、不思議なことに券番が「0006」のようでした。上記の券を売り切って新券請求し たのならば、様式は当然"30円門司3期"(小児断線入り)になるはずなので、これはちょっと解せません。合理的に解釈しようとすれば、①無日付で購入さ れた券に後でそれらしい日付をダッチングした ②駅に配給された券(100枚?)のうち若い券番をあらかじめ小児発行用によけておいた、といったことは考 えられますが、①なぜ「47.-2.-6.」なのか、②"乗車券簿"上そんなことができるのか、ちょっと疑問が残ります。


「国鉄色485系で行く日豊本線開業100周年の撮り旅」ご乗車記念重岡驛&宗太郎驛入場券(平成24年発行)。
最近、"撮り鉄"向けに JR九州が企画した臨時列車(24.-1.21.~24.-1.22.)の乗客に無料配布されたものらしく、筆者は全く知らなかったが某オークションで偶 然見掛け、記入ながら昔の国鉄券を思わせる様式だったため入手してみた。しかし、残念ながらやはり活字ではなく、日付までダッチングマシンによく似せた平 版のフル印刷もので、用紙も国鉄券とは全く異質で裏面が妙に白っぽい。券番は一応入っているが、某HPによると宗太郎の券は全部"0301"らしく、 ちょっと興醒め。(ちなみに、重岡驛のほうは全部"0326"か。) また、時代を感じさせるための演出と思われるが「驛」(旧字体)はちょっとやり過ぎ ではなかろうか。ともあれ、最近このような"マニア心理"に配慮した実券様式の記入・記乗が増えてきたのは嬉しいことではある。